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ヴァンサン トリコは、1972年にロワールのアンジュ地方で生まれました。南仏ニームで11年ワインを造っていましたが、満を辞しての独立の地に選んだのは、数々の必然的な偶然が手繰り寄せた、オーヴェルニュの地でした。この地で1971年より無農薬で畑を守っていた元当主クロード氏が年齢を理由に引退、畑を手放す決意をしているとの噂を、この地を訪れた、妻 マリーのご両親が知り、ヴァンサンに縁を繋いだのでした。1971年より無農薬で栽培していた畑は、ヴァンサンにとって願ってもない条件でした。その畑と醸造所を2003年に譲り受け、名実ともにオーナーとなり自分のドメーヌをスタートさせました。南フランスでワイン造りに携わっていたときから「キレイな方法」でワインを造りたいと思っていたヴァンサン。そうです、その方法とは農薬も化学肥料も使わない、ビオによる栽培です。それが、彼にとって「キレイな方法」かつ、ワインを造ることにおいては最低条件だったのです。

のプロフィール
ヴァンサン トリコは、1972年にロワールのアンジュ地方で生まれました。南仏ニームで11年ワインを造っていましたが、満を辞しての独立の地に選んだのは、数々の必然的な偶然が手繰り寄せた、オーヴェルニュの地でした。この地で1971年より無農薬で畑を守っていた元当主クロード氏が年齢を理由に引退、畑を手放す決意をしているとの噂を、この地を訪れた、妻 マリーのご両親が知り、ヴァンサンに縁を繋いだのでした。1971年より無農薬で栽培していた畑は、ヴァンサンにとって願ってもない条件でした。その畑と醸造所を2003年に譲り受け、名実ともにオーナーとなり自分のドメーヌをスタートさせました。南フランスでワイン造りに携わっていたときから「キレイな方法」でワインを造りたいと思っていたヴァンサン。そうです、その方法とは農薬も化学肥料も使わない、ビオによる栽培です。それが、彼にとって「キレイな方法」かつ、ワインを造ることにおいては最低条件だったのです。
インタビュアープロフィール
ワインショップ『pcoeur(ピクール)』店主。ブランド志向の20代を過ごし、30代半ばにして本当の心の豊かさを求め、シンプルライフに目覚める。映画会社、レコード会社、出版社などを経て、プロモーター、エディターとして活動。
// Office AIW // オフィス アイダブリュー

「キレイ」で何も足さないワイン造り

「キレイ」で何も足さないワイン造り

今、注目すべきナチュラル ワインの産地といえば、オーヴェルニュ地方。フランスの中南部にある中央山塊の中央に位置するこの地は、まさに「フランスのへそ」で、ヨーロッパ最大級の自然保護区を有するこのエリアには、多くの休火山や森、湖などの自然が豊富に残ります。フランスの中央部にありながらも、今も交通手段が整っているとはいえない地方のため、ブルターニュやバスク地方と並んで、古くからの伝統が保たれていることでも知られます。オーヴェルニュ固有の土壌や風土に恵まれ、1000m級の山々が連なる山岳地帯には緑豊かな牧草が覆い、特産のサレール牛が草を喰む、のどかな風景も見られます。農業や畜産によるクオリティの高い食材が揃うこの地には、星つきのレストランが30軒ほども存在し、美食のエリアとしても注目されます。ブドウ畑が広がるのは、中心都市クレルモン フェランの南側。産地としてはマイナーですが、優良なナチュラル ワインの造り手たちのたゆまぬ努力によって、エネルギー溢れる滋味深い味わいのワインが醸され、今、再注目されているのです。オーヴェルニュの風土のなかで、どのようなワイン造りがなされているのか、ヴァンサン トリコに伺いました。

― まず最初には、オーヴェルニュの産地の特徴を教えてください。

ヴァンサン(以下 V):オーヴェルニュ地方は、大西洋の影響を受け、湿潤で風が強く、夏は涼しいのですが、冬は厳しい気候風土です。独特の痩せた⼟壌はブドウの栽培に適していますが、厳しい土地ということに変わりはありません。ただ、その冷涼な気候のおかげで、ワインに冷涼感が出るんです。花崗岩質と⽞武岩質で構成される火山性の土壌はこの地特有のもので、フランスで唯一のエネルギッシュなテロワール。ですから、豊かなミネラルを含んでいて、ワインにもスパイシーさや胡椒のニュアンスをもたらします。
私は独立する前、南フランスのニーム近郊でワイン造りに携わっていました。南のワインが濃厚な味わいで渋味の強い、重いワインだとすると、オーヴェルニュは品種も繊細、フレッシュ感のある風味で飲みやすさがあるといえますね。南フランスでは3カ所で働きましたが、私自身、重い味わいが好みではなかったんです。それに畑の仕事をするにも暑すぎる(笑)自分でワインを造るなら、ガメイやピノノワールのような果皮が薄く繊細な品種がいいと思ったんです。

― なるほど、ガメイやピノノワールは、ブルゴーニュのイメージが強いですよね。なぜ、オーヴェルニュを選んだのですか?

V :ブルゴーニュのワインは、確固たる地位を確立しているがために、組織化されています。ワイン農家は小規模な家族経営が多いですが、すべての生産者がルールに縛られているともいえます。そして、土地の値段も高いですよね。
かたやオーヴェルニュ地方は、フランスの中央にあるにも関わらず、高速列車(TGV)は通らず、高速道路でさえも20年ほど前にやっと開通したようなエリアです。ですから、フランスの穴とも呼ばれていて、ブルターニュやバスクと同じように、この地特有の文化や古くからの伝統が保たれているんです。もともと、農業の形態としては単一栽培を行う地域ではなく、多品目栽培が一般的で、そのなかの一つがブドウやワインにすぎませんでした。ですから、ドメーヌの規模も小さく、組織化されていないんです。私は、ルールに縛られずに自由な発想でワインを造りたかったので、そういう意味でもオーヴェルニュは理想的でした。

― オーヴェルニュのワイン造りやその背景について、もう少し教えてください。

V :ワインの歴史でお話しすれば、オーヴェルニュ地方は、20世紀初頭まで地中海沿岸のラングドック ルーション、ボルドーを中心とするアキテーヌに続く、3番目の栽培面積を誇っていました、意外ですよね。フランスは古くから交通や物流を河川を使って発達させてきた国で、南のオーヴェルニュとパリ、その約400キロメートルを繋ぐのが川でした。その後、鉄道が開通し、ワインはより安い産地のものへと変わっていきました。
一方で、ブドウを襲う害虫 フィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)をご存知だと思いますが、フランス全土が被害にあうなか、唯一、生き延びていたのがオーヴェルニュでした。ですから、ワインといえば、オーヴェルニュという時代もあったんです。とはいえ、フィロキセラの被害を逃れた訳ではありません。第一次世界大戦の頃、遅れて病害がやってきたため、ワインの産地としては衰退の一途をたどりました。大きな打撃を受けながらも戦争の間は、ブドウの樹の対策どころではなかったんです。

― そのような歴史がありながらも、近年はナチュラル ワインの産地として再注目されていますよね?

V :フィロキセラ被害のあとに残った畑は、優良な丘陵の上の畑だけでした。結果、良いテロワールだけが残ったんです。現在は、その畑を10数人の優良なナチュールの生産者たちが所有しています。元をたどれば、今はなき幻の「ドメーヌ ペイラ」や鬼才といわれる「ピエール ボージェ」、そして私も続く形で、土壌の研究をして、テロワールごとに醸すことや、個性を醸すことに真摯に取り組んできました。そこに、志を同じくする生産者たちが自然に集まるようになり、ワインを造りながら日々品質の向上に勤しんでいったんです。それが、現在の評価へと繋がり、注目が集まるようになったと思います。

― では、オーヴェルニュで造りたいと思ったのは、どのようなワインですか?

V :南フランスで11年間、ワイン造りに取り組んでいた頃の流行りといえば、南のワインはより力強く、重いワインを造ることでした。例えば、醸造の工程では「この段階では、添加物○○を追加しなさい」といわれ続けました。栽培から醸造まですべてがナチュラルではなかったんです。グルナッシュやシラーなどの南フランスの品種で、段階ごとに何かを追加することが効率的で最善だという、一般的なワイン造りの枠組みのなかでワインを造っていました。
私自身、取り組むうちに、その工程に疑問を持ち、自分で造るときは「キレイな方法」でワインを造りたいと考えるようになったんです。南フランスで実践していた足し算で造りあげることとは真逆の「何も足さない方法」でワインを造りたい。それが自分にとって、独立するときの最低条件でした。

― なるほど、その「キレイな方法」という解釈は、面白いですね。

V :そうですね。この「キレイ」という価値観こそ、人それぞれですよね? 例えば、栽培に関していえば、化学的な農薬や肥料を用いたブドウ畑に、まったく雑草の生えていない状態をキレイで美しいと思う人もいる、それが一般的ですよね。かたや、私たちのように有機栽培で化学的なものを使用せず、草も虫も小動物も畑の一部。豊かな生物多様性のある生きている畑をキレイと思う人もいます。

― ワイン造りを始めた頃、ビオでブドウを栽培することは一般的ではありませんでしたよね?

V :はい。オーヴェルニュでは、先ほどもお話した「ドメーヌ ペイラ」くらいでしたね。じつは、私たちがオーヴェルニュ地方にドメーヌとブドウ畑を選んだのは、数々の必然的な偶然、巡り合わせによるものでした。妻 マリーは、生後6ヵ月間をクレモンフェランで過ごしましたが、その後、カーヴ コーペラティブ※1に勤める両親とともにボージョレに移住しました。そして、私と出会い、1999年に結婚。結婚式に選んだ場所は、オーヴェルニュの教会です。フランスの中央に位置するため、全土から親戚や友人たちが集まりやすいという理由からだったんです。まさか、4年後にオーヴェルニュに畑を買うなんて、想像もしていませんでした。翌年、独立に向けて畑を探し始めたとき、マリーの両親がこの地にバカンスに訪れたときに、偶然にも引退を決意し、後継者を探す前当主クロード氏の情報を聞きつけてきたのです。その畑は、1972年から有機栽培を実践している畑でした。1970年代からビオに栽培の転換を図るなんて、危険に満ちた冒険以外の何者でもありません。前当主クロードが、この地でもビオで栽培できることを、示してくれた畑でした。クロードの土地を2年間は借りていましたが、2003年に醸造所も含め、譲り受けました。まったくほかの産地や畑を探すことなく、オーヴェルニュの引力に吸い込まれるようにして、ドメーヌでのワイン造りがスタートしました。

注)※1 カーヴ コーペラティブ=ワイン醸造販売協同組合。複数のブドウ農家が加盟し、共同出資して醸造設備を購入。各農家が収穫したブドウをまとめて醸造を行うシステムのこと。